祥 ズイショウ

 字義 瑞 ズイ。めでたい兆し・吉兆。

   祥 ショウ。吉事のきざし。

祥瑞 とも表してともに同じ意。

とにかく老若男女を問わず、凶より吉がいいに決まっている。 しかし、大吉に極まると今度は下る一方しかない。

おそらくどんなに願い頑張っても、その傾斜を緩くすることが精一杯であろう。

「位人身を極めても云々」という歴史を振り返るまでもあるまい。 

ところが何故か愚行は繰り返される。

「吉」くらいで止めておけばいいものを

いつの間にか初心はどこかに行き、慢心だけが増長する。

そこで一念発起し「なに、凶も極まれば吉なり、吉凶と言うも、所詮は比べっこのことじゃないか」と力んで、迷わされまい!と肩を張りたいところだが、明るい験をどうして喜ばずにおれようか。

ごくごく自然な情であろう。

思うに、忘れてならないのは、我もそうなら同様に、彼もそうだということであろう。

蛇足ながら、花を半開で見るもよいが、冬芽に兆す春を観るのはさらにまた一興ではないか。

ほのかに兆すほのぼのとした便り、

字姿・音の響き共によい一句である。


翔 ヒショウ

 字義 飛  とぶ、空をかける意。

    翔 ショウ ぐるぐる飛びめぐる意。

鳥が羽を振ってとぶ形からとった象形ということだが、身近であるだけに熟語も多く、飛超や飛躍と似たような語感を持つ一句である。

ところで、子供のころ空を思うさま飛びかけることに夢をはせなかった人はいないであろう。 そして長じては、世のしがらみから逃れ、楽になりたいと願うのである。

しかし、いくら逃れようとしても生計がついて回る以上不可能なことだ。ならばいっそ寒山拾得に習い、人煙未踏のかなたに身を投じ得たとしよう、果たして逃れ得たか----------? 答えはあるわけが無い。

なぜなら死後の世界と一緒で、本当に行ってしまったのなら、決してソノ世界を語れぬからであり、真に杳として後を絶ち得たならば同様にソノ消息を伝えられるわけが無いからである。

さて、ここでふと思う、どこまで行っても犬はイヌ、猫はネコなのであり、彼らそれぞれの世界からは決して逃れられぬのだが、果たして「ワレ」は、しがらみをも含め、「ヒト」の(オリ)を超えることができるのであろうか-----------


 キッサコ

 字義 「茶をお飲みなさいよ」という

語感の一句。「去」は「去る・

去れ」の意味ではなく、意味を強める助辞也。

「如何なるか是仏法の大意?」趙州(ジョウシュウ)

答えて曰く「喫茶去」、というやり取りが出典である。いわゆる、禅問答なのだが、

まじめに突き詰めようとする人にも、そこそこでいいか、という人にも、「まあお茶でも一服めしあがれ」と返答するのであったという。

禅問答でなくとも、人生に煩悶し自分で自分を持て余したような時期を思い出し「まじめもいいが、一生懸命似になればなるほど、もつれるものだよなあ」と感慨を新たにする人もいるであろう。

また、頭に血が上らないまでも、知らぬ間に「思い込み」の枠に捕まり、限られた狭い視野に閉じ込められていることに気づけなくなっていることがなんと多いことか--------!  私は、自分の物指し以上のものを決して計り得ない。 私は、本当に山を木を見ているのだろうか?  

自らの物指しに狂いは無いのか-----

「先ず,茶でも一杯」 なかなか重い一句ではある。


錐 カンコスイ

 字義 閑 カン・ヒマ・しずか

    古錐 使い古した錐

使い古し、先が駄目になり、役に立たなくなったキリのこと。似た語句に

「臘月12月)の扇子・破草履(破れゾウリ)

などがある。 字のごとく、時期も外れた、役立たずや、もう捨てるばっかりのゴミに等しいものが一句として揮毫されるのだからおもしろい。

 さて、いつの世も利潤第一・合理計算が最優先なのであるが、その中にあって、人間の味わいとなると、どうもソノ物指しでは計りきれないように思われる。

一見、馬鹿なのか利口なのか?いるのかいないのか?無用の長物のごとくにしか見えなくても、ソレは物指しのレベルが合わないに過ぎない。

「カミソリ」の時代を通り、背伸びと挫折を繰り返し、苦い水を飲んでは臍を噛み、逡巡と煩悶を超えてたどり着いた、

鈍磨し尽くすまでのその経験値と、あえて研ぎなおさない生きざまは、そう簡単に窺い知れるものではあるまい。

因みに、ニューロンネットワークにおける総合判断力のピークは60歳前後だと言う。

なんと嬉しいことではないか。

味のある一句である。


 コウウンリュウスイ

 字義 行く雲、流れる水。

 修行僧のことを「雲水」と呼ぶが、一つ処に留まらず、常に形を変えて定まることの無い白雲や川のように、諸方を遍歴修行する姿を言ったものである。

「漂白」と言ってもいいが、外見に騙されて、寄る辺の無い根無し草だとか、世をすねているのだ、とだけ見てはなるまい。

中身は、何ものにも束縛されぬ究極の自由をめざしているのである。

そして同時に、何ものをも束縛せず且つ

決して固執しないことがセットであることを忘れてはいけない。

 余談になるが、この語句を見ると必ず思い出されるものに、「道々のもの」と呼ばれた古の大道芸人たち、また山師や木地師・山伏等の修験者などがある。彼らは,諸国通行勝手を許され、納税の義務も免除されるが、精神面では庶民の暮らしとは絶縁された存在であり、常識外の異能集団でもあった。時に超常力を持った「人外」の魔であり鬼であったのである。

「一処不住 自在無碍」という耳ざわりのよい境涯も、裏を返せば「人外」という魔境に身を投ずることに他ならぬのである。

淡い憧れや夢の入り込む余地はどこにも無いことを覚悟せずばなるまい。


 ケイセイサンシキ(ショク)

 字義 渓 聲 谷川の音

    山 色 山の姿ようす

出典は、宋の蘇東坡が悟りの境涯を認めた七言絶句である。

渓聲便是広長舌 渓聲スナワチ是コウチョウゼツ

山色豈非清浄身 山色アニ清浄身ニアラザランヤ

夜来八万四千偈 ヤライ八万四千ノゲ

他日如何挙似人 他日イカンガ人ニコジセン

「谷川のせせらぎ、四季色とりどりの山並み、雨戸を叩く風の声、皆そのままに法を説いている。しかしこればっかりは伝えられない。冷暖自知だから----」という。

 彼が何をどのように悟ったのか?

一体、その五感には・その自我には、この何の変哲も無い森羅万象がどのように映っているのであろうか?

 とりあえずこれだけは言える--------------

今二人でなかよく座って眺めているバラは、私の中に蓄えられたデータによって捕らえたそれであり、同時に彼女専用のソレによって捕らえられたモノでもあるということだ。 つまり、バラは一つだが、百人のバラが同時に存在するということである。

即ち、ただ「同じ」だという幻想で繋がっているのが世界の真相なのであろう。

だが、この幻想に気づくことが果たして幸せなのかどうか----------


 クウソクゼシキ

字義 色即是空 空即是色 と対で使われることは余りにも有名である。

 色 を並べ対比しつつ何かを云わんとしているわけだ。先ず、色 とは森羅万象・欲望ということである。厄介なのは空 だが、よく扇子が譬えに使われる。

これは紙と竹が集まったものであり、紙だけでも竹骨だけでも意味をなさぬし、同時に使う人もいて初めて真の意味で扇子が扇子として実在し働くのである。 つまり、扇子という単語の表象する概念と実在は、約束事と言う虚構の上にのみあるということなのである。  言い換えれば、言葉があるからそのものの実体も当然あると思い込んでいるのが日常という なのだが、実は様々な縁(紙・竹・人---のかりそめの集合に過ぎない幻だということなのである。

しかしこのまま理屈の中で終わると、虚無に留まり働きを失ってしまうから、もう一歩進め 空即是色 と扇子を扇ぐのである。

 無関心・無感動・無目的・無頓着などに陥り、世を斜に見て生きてはもったいない。

これを突き抜けねば意味が無いではないか。

恐ろしいことは、「空だ色だ」「下らん・つまらん」と言葉に遊び、それを気づけないワレの存在であろう。

コトバは所詮虚構の幻なのだが--------


雨 フンコウチョウウ

 字義 焚 フン・たく・やく

    聴 念を入れて詳しくきく

悠々閑々として香を焚き雨音を味わっているわけだが、ただ心静かな安らぎばかりではない。その境涯は、眼で聞き耳で嗅ぐのである。まあこれもコトバに走る臭みはあるが、建前としてお許し願いたい。

 ところで、世の中がかようになってくると、やれ自然だの癒しだのという言葉が溢れてくる。それも解らぬでは無いが、どうも誰かに踊らされ、ムードに酔っている匂いがしてならないのである。

時に追われ・金に使われ・いやみに晒され、確かに大変であるが、こんな時こそ足元を確認せねばなるまい。

先ずは、追われ・使われ・晒されること

から。逃れられぬことを知ること。次には、逃げ込み癒してくれる「自然」などどこにも無いと知ることだ。在るのはどこまで行っても人の手が入った「ニセの自然」だけである。  言いたいことは、なまじっか逃げることはやめ、真正面から向き合った時に初めて足元が見えるということだ。

足元が見えればしめたもので、すぐそこに「忙中閑」があることに気づけるであろう。

他人事ではない、私が自戒せねば----------